2020-04-08 大正時代の謎な番付編成 大正7年春の関脇九州山は4勝3敗1預2休、怪我の途中休場にも関わらず翌夏場所大関昇進。同部屋の栃木山が横綱に昇進して東方が大関空位となるのを避けるためだろう。 新大関は1勝1預で途中休場、大正8年春は5勝5敗で大関陥落となってしまった。 この九州山、三役自体昇進直前の2場所、直後の小結と3場所であった。その後も勝越し1場所のみで引退。入れ替わりに同部屋の對馬洋が昇進したがこちらも2場所で陥落しその後5場所で引退。当時の大関は空位を避けるためで特別な地位という認識は薄かった?