相撲批評クラブ ひげ庄之助

明治時代からの相撲が好きです。

名古屋

名古屋場所も2日目終わって進退の白鵬は2勝。衰えはありありと見えるが白星。15日続くか?照ノ富士は落ち着いており無敵の様相。貴景勝も休場、高安も腰痛再発では横綱可能性は8割か。

貴景勝も頸椎椎間板ヘルニアとは。頸椎損傷は力士にとって命とり。来場所も休場で療養した方が吉かも。

3日目を前にしてもう先が見えた感もある。

横綱の進退

昭和38年のサンデー毎日別冊名古屋場所号より

裏正面読者のページより引用。「夏場所千秋楽から名古屋初日まで1か月にも足らぬから(中略)相撲勘を取り戻し体調を整えるには短すぎるから名古屋休場を決定したものと思われるが秋はどうか。休場療養は横綱ゆえに許されることであると思うが、その一面横綱ゆえに許されざるともいえる。金看板がいつまでも土俵を放棄するのはファンに対し顔向けができないことではないだろうか。(中略)けがが回復しないか不幸負け越すようなことがあればいさぎよく土俵生活を去るべきで残酷ともいえるこの儀をあえて提唱する。」

柏戸春場所中の骨折で長期休場となった。当時24歳だった柏戸でも周囲の目は厳しいものがあっただろう。白鵬も休場が続き36歳という年齢。横綱の責務を果たさず権利のみ受ける状況。名古屋で不調となっても現役続行のような発言も見えとても金看板といえる地位ではない。

新弟子検査

昭和35年サンデー毎日別冊秋場所号より。

生きている相撲史は元力士の落語家三遊亭円窓。これまた大きかった五代目円生の実弟

インタビューで明治42年当時の新弟子検査の様子を語っている。かなりいい加減なもので廻し姿で国技館へ行き土俵上にいる天秤棒を担いだ力士が廻しを引っ掛けて目方を測った。年齢より数字が多ければ合格という大雑把なもので、立ち合いの親方が年齢、名前、部屋を聞いただけらしい。円窓は20歳で24貫。当時新弟子検査の受けた力士は80人程とか。

明治44年の新橋倶楽部事件の際にも梅の花の付け人だった関係で下っ端ながら親方に嘘をつき駆けつけ世話を焼いていたらしい。梅の花は大工上がりのため床をはがして土俵築きに活躍、鶴渡は八百屋出身で買い出しで活躍とか。明治の相撲史の裏面として貴重。

 

高砂部屋2

その後高見山朝潮→前田山→朝潮→富士錦→朝潮朝赤龍と続く。

アウトロー力士はどの時代もおり大関2代朝潮は大の博打好き、巡業でも構わず博打を打っていたとか。今ならば賭博で逮捕かも。

男女の川は横綱昇進後不成績を続け、一代年寄制度を創設し引き摺り下ろすように引退させられた。理事にもなったが協会に関心なく廃業。職を転々とし晩年不遇だった。

前田山は現役時代より粗暴な性格。ヤクザと喧嘩し腕に跡が残った。突っ張りを得意とし横綱昇進時も但し書きがつく程で結局休場からの野球観戦が元で強制引退。年寄としては育成能力を発揮した。

朝青龍は言うまでもなく不祥事のオンパレード。結局まともな引き際とならなかった。

朝乃山はこの系譜に仲間入りはないと思われたが処分力士の一人となる。

ある意味自由主義高砂の伝統か。小錦白田山暴力団絡みの不祥事があった。

高砂部屋

高砂部屋の起源自体、初代高砂浦五郎が相撲会所の玉垣ほかの独裁体制に抗議し脱退したのが始まりでアウトローな成り立ち。番付から抹消されるなど穏やかではなかった。

その高砂が5年ほどで復帰すると検査役の重職で迎えられ、トントン拍子で取締に出世。

かつての玉垣側のポジションに就くと自身も独裁者となり権勢を奮う。既にあった高砂名跡を高島に改称させる、勝負判定にも口を出し現役力士の不満が爆発。

明治29年、力士が料亭に籠り改革を要求する中村楼事件で失脚した。奇しくも自身の23年前の事件と同じケース。

 

朝潮

朝乃山の師匠だった錦島親方(元大関朝潮)が退職とか。停年は過ぎて再雇用の参与だったが。朝乃山の引責と言われたが自身の外出違反によるところも大きいとか。

思うに思い切った処分を下せないのは一歩違えば自らも処分対象となることが多いからであろう。第一報で厳罰と出ても結局トーンダウン。

奉行側の執行部にも疚しいことがちらほらあるに違いない。

相撲協会全体の体制を一新しなければ朝乃山の事例は今後も続くだろう。

夏場所の照ノ富士

照ノ富士は今場所も快調。優勝は8割がた確定だろう

11日目に反則負けとなったがやや疑問。勝負に影響する髷つかみだったか。

頭をおさえつけて投げる際に髷をつかんでいたがその前に妙義龍が裏返しになっていた。

はたく際の髷は問題だがこの場合はどうか。審判部長は師匠伊勢ケ濱だった。

かつての横綱千代の富士は上手投げの際に頭や首を押さえつける強引な投げでウルフスペシャルと言われたが…