合同稽古
初場所へ向けた合同稽古。感染数の急速な増加で危ぶまれたが何とか開催。
白鵬が前回同様健在を見せつけた。貴景勝は微妙、高安が15勝13敗で好調。
考えると大関昇進後好調場所も多くあったが、兄弟子稀勢の里と同様あと一歩のところで優勝を逃してきた。腰痛も次第に悪化しあっという間の大関陥落。まだまだ引退は早い。高安の全盛時代と比べるとライバルも減り優勝、あるいは大関復帰も可能であろう。
昭和51年の魁傑も3月陥落で5勝、10勝-5勝と低調だったが9月に優勝、その勢いで11勝-11勝で52年3月大関復帰した。その後4場所で陥落はしたが…
毎場所キーマンが変わり混沌の相撲界。高安あたりがカギを握りそうだが…
相撲協会の組織 2
おまけだが昭和三三年、年寄行司の定年制決定の際に、参与制度も新設された。
理事や検査役を10期(10年)務めた年寄が資格者で階級としては主任の上で待遇は主任と同等で、現在の役員待遇のようなものか。
初めての任命は追手風(元大関清水川)でその後大山(元高登)、立田山(元能代潟)等が任命されたはず。徐々に規定も曖昧で病気療養の年寄ばかりになっていったような。元々字のごとく「事業に関わる、相談を受ける」であり、隠居ポストだが。
音羽山(小結若ノ海)なんかは審判の後昭和五五年~平成八年まで参与。糖尿病の悪化で職務が困難、年寄株を売って廃業の噂もあったはず。
昔春日野理事長が病身の大鵬、立田川(鏡里)が役員待遇であることを質問され、「功労者なんだよ、参与になんかできるかい」と反論していた。
相撲協会の組織
時津風理事長の最後の改革、昭和43年2月の機構改革だろう。
それまでは取締→理事→勝負検査役→木戸主任・桟敷主任といった程度。検査役は準幹部ともいわれたが万事が丼勘定の相撲協会、組織としては曖昧だった。理事にしても元横綱、大関、偶に巡業等で実績ある元平幕の年寄を「二階級特進」といったところ。昔の元横綱は引退即検査役、数年で取締といったところか。
それを指導普及部、生活指導部、事業部、審判部、地方場所部、巡業部と設置。全年寄がいずれかに所属の形となった。(但ししばらくは無任所年寄も多かった。昭和五五年頃より全年寄が所属か)
旧来の取締、理事、検査役、主任、平年寄の序列では公益法人化は厳しかっただろう。