相撲批評クラブ ひげ庄之助

明治時代からの相撲が好きです。

雷の最後 2

雷は大正4年夏引退し、大正5年春の番付で権太夫ではなく雷藤太郎と年寄欄に記載された。表面上は無役の年寄だったが、大正5年3月検査役の尾車(大関大戸平)が死去、浦風(平幕小松山)が健康上の理由で辞任し補欠選挙が行われ、雷と峰崎(木村銀治郎)が選出された。

大正10年一時株式会社化された際に出羽海(常陸山)、入間川(両国)とともに取締となり、解散されても依然として取締を続行し昭和に至っていた。

雷はその数年で部屋を衰退させた・先代娘と離縁したことに加え、金銭面でもトラブルがあったらしく、協会のほぼ総員が雷を引き摺り下ろしたいという意見だったとのこと。

知恵者が策略を巡らせ誘引し、留任ありきの辞職を発表させ失脚させたとか。

やはり主導していたのは出羽海系らしい。事実雷の死去後出羽海が一気に主流派になった。

雷部屋は元関脇玉椿の白玉に引き取られたが、1年もたたず死去し力士たちは四散していく。

残党の中川部屋、武蔵川部屋もあったが老齢で閉鎖。雷系もまとめる形で鏡山部屋が新設されたが細る一方で終戦直前に閉鎖した。

玉椿といえば昭和3年に亡くなってるのは史実から明らかなのに、昭和33年にもなって養老院に収容されているという記事が掲載されたり(真実は玉椿好きの地方相撲の老人で、一時は常陸山の縁者が見舞いに行くほどの騒ぎであった)、屋台のおでんを引き野垂れ死んだなどと語られるのも雷一門下げをしたい出羽海系の入れ知恵とか。

その出羽海も今は落日。

雷の平年寄降格の記事は当時の野球界のみ、後の文献では読売大相撲の明治十代力士年代実戦記以外には見当たらない。