himatom

明治時代からの相撲が好きです。

照ノ富士最多勝

9日目で照ノ富士が年間最多勝を決める。実に7年ぶりの70勝以上。ここ数年は星の潰しあい、上位陣の不甲斐なさから低調だった。50勝台が続くのも異例。個性派力士を増やしても要となる力士がいなければ締まらないのだ。

照ノ富士最多勝は1月より予想されてはいたが他の力士がなんとも情けない。貴景勝は押し一本ながら奮起してるが正代は存在感すらなく無気力な相撲を展開。幕内上位と何ら実力は差がなく大関の昇進試験を1度クリアしたというだけだろう。御嶽海もムラがひどく他の三役陣は平幕往復レベルで定着も厳しい。照ノ富士次第だが今後数年は照ノ富士中心だろう。新大関がこの先1年も難しい現状では横綱は当分見られそうもない。

九州 続き

十両大鵬孫の王鵬が好調で全勝。ようやく大器開眼か。これまで腰が高くそこを突かれる相撲も多かったが腰もしっかり降りている。得意は突き押しのようだがまだ四つと押しが半々のような相撲で自分の型が定まっていない印象。炎鵬は相撲を覚えられ4敗。じりじりと番付を落としている。相撲のスタイルを変えなければ厳しいだろうがあの体ではどうなるか。期待の北青鵬は初日早々出鼻を挫かれた。これまでも不運の印象あるが今後どうなるか。

九州場所

九州場所も9日目が終わったが何か興味が湧かない。戦前の予想通り照ノ富士が盤石で貴景勝も好調。謹慎から戻ってきた阿炎にベテランの玉鷲。気のせいか淡白な相撲が多い。

2年ぶりの九州で疲れもあるかあっさり決まる。さらに北の富士が言っていたように勝負判定の不可解な面がなおのことモヤモヤ。髷掴みは勝負が決まる直前のみ反則としていたのでは。逆の立場であれば物言いがついたかと言えば疑問。貴景勝を勝たせたい協会の思惑が動いたと邪推したくなる。不満を言っていた逸ノ城は今日は無気力な相撲であっさり黒星。

昔の横綱

白鵬の暴走は問題だったが昔の横綱は親方以上の力があった。読売大相撲昭和47年5月号「その後の4庄之助」より。

「私は長い間玉錦関の番頭をやりましたが、玉錦は取締などを呼びつけたものですよ。昔の横綱は権威がありましたね。それも東富士さんまでですね。東富士さんは理事クラスを自宅に呼びつけてましたし会長の時にストライキをやったり、検査役を力士会で選んだりした。それがどうです。今の力士会の弱さは。第一線で働いてるものの給料が安くて、やめた者が高い社会など相撲界以外どこにありますか。今は親方万能時代ですな。年寄の言うことなら間違っていても通ってしまう。」

25代庄之助の言葉だが行司ストライキの責任者だけに実感がこもる。

月給も11万7千円がストの結果15万になったという。昔の年寄は理事クラス以外は現役より格下だったらしい。白鵬のように傍若無人は論外だが年寄衆が無駄に力を持ちすぎとも…

九州場所の番付

九州の番付は定員42人の所41人。白鵬引退が編成会議後のことだったためだろう。横綱白鵬を急遽消去し年寄欄5番目に「間垣翔」。

番付面の不公平はままあり、昭和25夏は前場所前頭筆頭で8勝7敗(うち不戦勝2)の出羽錦が小結、前頭2枚目で9勝の神風が西筆頭。大部屋出羽海の出羽錦が不戦勝2つということで揉めた。弱小二所ノ関の神風は腐って5連敗で休場。そのまま引退した。近年では平10秋十両5枚目で4勝の久島海が下に8枚ありながら幕下筆頭に陥落。場所前引退した。

当時陥落やむ無しは10枚目で1勝の栃乃藤、12枚目の豊桜(7勝)、13枚目の五剣山6勝の3人。一方昇進確定は東西筆頭の栃ノ巌、北勝光5勝、2枚目の和歌乃山5勝、6枚目で全勝の竹内と4人。和歌乃山を据え置き3人の入れ替えもあり得たが陥落。この場所の十両は大勝ち大負けが少なく6勝~9勝が26人中22人。9枚目の出羽平が7勝で陥落候補ではあったはずだが。平成以降6枚目以上で4勝以上ながら幕下陥落は唯一のケース。これに限らず久島海は番付運悪く早逝とともに偲ばれる。

隆の里没後10年

11月7日で元鳴戸親方横綱隆の里)が亡くなって10年。現役時代は中卒ながら理論派で経済の専門誌を読むインテリだった。弟子の指導にも生かされちゃんこにもこだわり強く稀勢の里は大きく育った。稀勢の里は没5年でようやく横綱となったが皆勤2場所で不本意な引退。怪我への対処がまずかったのも大きく師匠が健在ならばどう始末付けたか。

50場所以上の対戦 1

昭和43年九州、三段目の西野と北の湖が対戦。西野が約2年先輩だが北の湖があっという間に番付を駆け上がり46夏新十両の時、西野はまだ幕下24枚目。48秋ようやく十両昇進するが十両でも一進一退。50九州魁輝の名で入幕、23歳だが10年の土俵人生。北の湖は優勝3回を数える横綱であった。52夏前頭3枚目に昇進し漸く北の湖と2度目の対戦。51場所経っていた。54年には北の湖に連勝などじっくり力をつけ長く平幕中位に在り、62春引退。引退後友綱として魁皇を育てるなど弟子の指導では魁輝に軍配か。